QUESTION / 元の問い
「人と人はリアルに会った時のみ間を共有するのだろうか?現代に良く有るネットコミュニティやネットコミュニケーションに人と人の間は成り立つのだろうか?」
デ ジタル空間に「間」は成立しない、という直感は根強い。しかし哲学者和辻哲郎が1934年『倫理学』で示した「間柄」の論理は、身体の物理的近接ではなく「相互に開かれた志向性の交差」こそが間の実質だと喝破する。二者が互いを「意識の対象」としてではなく「共に何かへ向かう者」として経験するとき、間は生まれる。ならば問いは「対面か否か」ではなく、「その志向性の交差がデジタル媒体で起きうるか」へ移行する。
社 会学者バリー・ウェルマンは2001年にPersonal Networks誌で「ネットワーク個人主義(networked individualism)」を提唱し、インターネット上の関係が地縁・血縁を超えて固有の紐帯強度を持つことを大規模調査で示した。さらに現象学者ダン・ザハヴィは2014年『自己と他者』で、テキスト交換でも「応答の遅延と期待の緊張」がリアルタイムの間と構造的に等価な時間経験を生むと論じる。間の核は空間的共在ではなく、相手の応答を「待つ」ことで生じる時間的空洞だ。
だが均質ではない。人類学者マイケル・ウィンクルマンが2010年に整理した「入れ子状の注意共有(nested joint attention)」の研究群は、身体的同調(breathing sync・視線・微細な筋電位)が間の密度を決定的に底上げすることを示す。ネット上の間は「時間的空洞」として成立しても、身体的共鳴の層が薄い分、飽和しにくく、壊れにくい代わりに深まりにくい可能性がある。では、その「薄さ」を意図的に設計で補えるとき、間はどこまで豊かになれるのか。
DEEPER/学術的観点から
和辻哲郎の「間柄」概念が決定的なのは、1934年の『倫理学』第一巻において、人間を「個人」と「社会」の二項対立で捉える西洋近代哲学に対し、「人と人の間そのもの」が存在論的な第一単位であると宣言した点にある。この視点に立てば、デジタル通信は「媒体の変換」であって「間の消滅」ではない。和辻はまた、間柄の成立条件として「呼びかけと応答の往復性」を挙げており、これはテキストチャットやSNSのリプライ構造とも原理的に合致する。同書は戦後も版を重ね、情報社会論への応用が2000年代以降の日本哲学研究で繰り返し試みられており、デジタル空間における「間」の可能性を問う本稿の問いへの最も直接的な理論的足場となる。
KEY REFERENCE/参考文献
- 和辻哲郎 (1934). 『倫理学』第一巻, 岩波書店 ↗
- Barry Wellman (2001). Computer-Supported Cooperative Work 10(2-3): 227-269 ↗
- Dan Zahavi (2014). Self and Other: Exploring Subjectivity, Empathy, and Shame, Oxford University Press ↗
- Michael Winkelman (2010). Shamanism: A Biopsychosocial Paradigm of Consciousness and Healing, 2nd ed., ABC-CLIO ↗