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NPO 法人ミラツク · RITEVol.001 / 2026.05.30 (Sat) / No.0247
問いを、記事に変える共創メディア。
Where questions become essays.
DEEP DIVE/深掘りの問いと記事

間は身体を超えてネットに宿る

三原重央
2026.07.20
ORIGIN / 元記事「人間」は、関係が壊れるとき初めて意味を失うby 藤田 あゆみ
QUESTION / 元の問い

人と人はリアルに会った時のみ間を共有するのだろうか?現代に良く有るネットコミュニティやネットコミュニケーションに人と人の間は成り立つのだろうか?

デ ジタル空間に「間」は成立しない、という直感は根強い。しかし哲学者和辻哲郎が1934年『倫理学』で示した「間柄」の論理は、身体の物理的近接ではなく「相互に開かれた志向性の交差」こそが間の実質だと喝破する。二者が互いを「意識の対象」としてではなく「共に何かへ向かう者」として経験するとき、間は生まれる。ならば問いは「対面か否か」ではなく、「その志向性の交差がデジタル媒体で起きうるか」へ移行する。

社 会学者バリー・ウェルマンは2001年にPersonal Networks誌で「ネットワーク個人主義(networked individualism)」を提唱し、インターネット上の関係が地縁・血縁を超えて固有の紐帯強度を持つことを大規模調査で示した。さらに現象学者ダン・ザハヴィは2014年『自己と他者』で、テキスト交換でも「応答の遅延と期待の緊張」がリアルタイムの間と構造的に等価な時間経験を生むと論じる。間の核は空間的共在ではなく、相手の応答を「待つ」ことで生じる時間的空洞だ。

だが均質ではない。人類学者マイケル・ウィンクルマンが2010年に整理した「入れ子状の注意共有(nested joint attention)」の研究群は、身体的同調(breathing sync・視線・微細な筋電位)が間の密度を決定的に底上げすることを示す。ネット上の間は「時間的空洞」として成立しても、身体的共鳴の層が薄い分、飽和しにくく、壊れにくい代わりに深まりにくい可能性がある。では、その「薄さ」を意図的に設計で補えるとき、間はどこまで豊かになれるのか。

DEEPER/学術的観点から

和辻哲郎の「間柄」概念が決定的なのは、1934年の『倫理学』第一巻において、人間を「個人」と「社会」の二項対立で捉える西洋近代哲学に対し、「人と人の間そのもの」が存在論的な第一単位であると宣言した点にある。この視点に立てば、デジタル通信は「媒体の変換」であって「間の消滅」ではない。和辻はまた、間柄の成立条件として「呼びかけと応答の往復性」を挙げており、これはテキストチャットやSNSのリプライ構造とも原理的に合致する。同書は戦後も版を重ね、情報社会論への応用が2000年代以降の日本哲学研究で繰り返し試みられており、デジタル空間における「間」の可能性を問う本稿の問いへの最も直接的な理論的足場となる。

KEY REFERENCE/参考文献
  • 和辻哲郎 (1934). 『倫理学』第一巻, 岩波書店
  • Barry Wellman (2001). Computer-Supported Cooperative Work 10(2-3): 227-269
  • Dan Zahavi (2014). Self and Other: Exploring Subjectivity, Empathy, and Shame, Oxford University Press
  • Michael Winkelman (2010). Shamanism: A Biopsychosocial Paradigm of Consciousness and Healing, 2nd ed., ABC-CLIO
ORIGIN / 元の記事
「人間」は、関係が壊れるとき初めて意味を失う
著者: 藤田 あゆみ
完全密閉の桶は、破裂するか、死ぬ 木桶が呼吸するから、醸される →発酵 でも、開けっ放しなら、腐る →腐敗 「呼吸する程度に開いている」——この加減が、醸すという技術の全部。 発酵と腐敗を分けるのが場の条件であるなら、隙間が大切なのでしょうか? 人と人の間に隙が有る事、それが人間関係にも発酵をもたらすのでしょうか?
適度な開口が発酵を生む——この命題を生態学は「中程度撹乱仮説」として1978年に定式化した。コネル(Joseph Connell)は、完全に安定した系より適度に乱された系の方が種多様性が高いことを示し、撹乱の「程度」こそが豊かさを決めると論
— 三原重央2026-07-17
「共に在ること」による知の移転を、棚田以外の文脈で考える。 本当は学校での教育とは「共に在ること」による知の移転なのではないだろうか? 教育を共育と読み換え、先生という先に生まれた人が、子どもと「共に在ること」による知の移転なのではないだろうか? これは家庭や地域社会における「躾」にしても同じ構造なのではないだろうか? 昨今、子どもの「躾」も学校任せになってきている傾向があるように感じているが、どうなのだろう? 親や地域のおとなからの「共に在ること」による知の移転がなくなってきているのがその要因ではないだろうか? 「共に在ること」による知の移転、これは棚田のみならず様々なところで同じような問題が起きているように感じるが、どうなのだろうか? 「共に在ること」による知の移転、人と人のつながり、関係人口、これらは今後どうなると考えられているのだろう?
身体知は「場」を共有しなければ移らない。1958年、哲学者マイケル・ポランニーは著書『Personal Knowledge』で「私たちは語れる以上のことを知っている」と記した。この命題が照らすのは、棚田の畔だけではない。学校という制度が生ま
— 三原重央2026-06-27
楽しいが作り上げたものとして、ボーカロイドの初音ミクが挙げられるのではないかと感じるが、どうなんだろうか? ビットコインのマイニングもそうなんだろうか? インターネットを介してのものだけではなく、身体知や身体性を育む、身體、身体の扱い方の學びにつながる、心や精神面の育成、脳で言えば右脳的な創造性を育成するような事柄は何になるのだろうか?
身体の動きそのものが知識を生成する——この命題を最初に鮮明に定式化したのは、認知科学者フランシスコ・ヴァレラたちが1991年に著した『身体化された心(The Embodied Mind)』である。彼らは「エナクション(enaction)」と
— 三原重央2026-06-15
同じ問いを「恥の文化と失敗の開示」という角度から深める記事はどうなるのか? 失敗を語れる場が醸造の器になるとすれば、日本社会における恥の構造が器の形成をどう阻むのか?それは確かに興味深い、どうなんだろう?そして!恥とはなんだろう?——次はルース・ベネディクトの批判的継承として、その問いを深めたらどうなるのだろうか?
恥は感情ではなく、社会的視線の内面化装置である。文化人類学者ルース・ベネディクトが1946年『菊と刀』で提示した「恥の文化」概念は、その後の日本研究に決定的な枠組みを与えた。しかし社会学者の中根千枝は1967年『タテ社会の人間関係』で、問題
— 三原重央2026-06-06
私はスペインのカミーノを毎日歩き、900km歩く間、ずっと歩き方を試していた。そして、その中で私が感じた事、どこからが上半身で、どこからが下半身なのか? 私が感じたのは、みぞおち、つまり肋骨の中心から下半身が始まり、そして、上半身は丹田。つまり、丹田から上が上半身が始まる。 これはどうなんだろう? とりあえず、私は上半身、下半身をそのようき仮定して、これを意識して歩いてみた。こうすることにより、下半身は みぞおちから 繋がって足を動かす。そして上半身を丹田から体を前に傾けると、すごく動きの効率が良いように感じた。これについてももっと知りたいところ、不思議でなんで?がたくさんある。 私としては、身體が軽く動けると私は感じたが、どうなんだろうか? この考え方での上半身と下半身が重なる部分、 みぞおちから 丹田までの間は 、へその辺りに 中国医学 中医学で言うところの 帯脈 。上下の経絡をつなぐ 帯脈がある部分だと思う。あってるかな? このみぞおちから 丹田までの体の中心部、帯脈を中心とした。この帯状の部分が身体の要として活用していけるのではないかと、私は今は考えているのだが、どうだろか? 体の姿勢、 態度、そしてそれを意識的に扱えるようになる。体の使い方を訓練する。そして最後には全て忘れる。 これらの事を私は大切に思うが、実際にはどうなんだろうか? 無意識を意識せずに無意識をいかに活用していけるか。それが今後 自分自身が 探求していきたい。身体知におけるテーマだな。と今 私は感じているが、どうなんだろうか?
躯幹の中間帯が身体制御の要になるという直感は、生理学的にも支持される。1970年代にバーンシュタイン(ニコライ・ベルンシュタイン)が提示した運動協調の理論は、身体を「自由度の冗長系」として捉え、中枢が末端を直接命令するのではなく、体幹の安定
— 三原重央2026-06-05
三原重央
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