本文へスキップ
NPO 法人ミラツク · RITEVol.001 / 2026.05.30 (Sat) / No.0247
問いを、記事に変える共創メディア。
Where questions become essays.
DEEP DIVE/深掘りの問いと記事

身体が先に知る場所で教育は生まれる

三原重央
2026.06.27
ORIGIN / 元記事棚田が消えるのは、継ぐ人がいないからではないby 梅谷真慈
QUESTION / 元の問い

「共に在ること」による知の移転を、棚田以外の文脈で考える。 本当は学校での教育とは「共に在ること」による知の移転なのではないだろうか? 教育を共育と読み換え、先生という先に生まれた人が、子どもと「共に在ること」による知の移転なのではないだろうか? これは家庭や地域社会における「躾」にしても同じ構造なのではないだろうか? 昨今、子どもの「躾」も学校任せになってきている傾向があるように感じているが、どうなのだろう? 親や地域のおとなからの「共に在ること」による知の移転がなくなってきているのがその要因ではないだろうか? 「共に在ること」による知の移転、これは棚田のみならず様々なところで同じような問題が起きているように感じるが、どうなのだろうか? 「共に在ること」による知の移転、人と人のつながり、関係人口、これらは今後どうなると考えられているのだろう?

身体知は「場」を共有しなければ移らない。1958年、哲学者マイケル・ポランニーは著書『Personal Knowledge』で「私たちは語れる以上のことを知っている」と記した。この命題が照らすのは、棚田の畔だけではない。学校という制度が生まれる以前、人類の圧倒的多数は「先に生きた者と同じ場に立つ」ことで学んでいた。教育学者ジャン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガーが1991年に提唱した「正統的周辺参加」理論は、徒弟制の学びを分析しながら、知識は共同体への参加を通じてしか本物にならないと論証した。共育とはすなわち、先に生まれた者の身体が放つ信号に、後から来た者の身体が同調するプロセスである。

日本の「躾(しつけ)」という語は、「身を美しく付ける」と書く。服飾用語から転じたこの言葉は、形を整えることが内面を整えることと不可分だという身体知の直観を孕んでいる。民俗学者の宮本常一は1960年代、全国の農山漁村を歩いて記録した膨大なフィールドノートの中で、子どもが大人の仕事場に自然に入り込み、叱られも教えられもせずに「なり方」を身体化していく様子を繰り返し記述した。この「傍にいる」ことへの参加が、地域が子育てを担った真の構造だった。社会学者のロバート・パットナムは2000年の著作で、地域の社会関係資本(ソーシャルキャピタル)の希薄化がまさにこの共在の消滅と連動していると指摘している。

問うべきは、なぜ「共に在ること」が再設計されないのかだ。関係人口という概念は、地域と都市の間に新しい共在の回路を作ろうとする試みとして注目されてきた。しかし研究者の田中輝美が2021年に指摘するように、その接続が「体験消費」にとどまる限り身体知は移らない。学校・家庭・地域が制度的に分離した社会で、誰がどの「場」に子どもを連れていくのか。継ぐ人がいないのではなく、継ぐための場の設計が壊れた——棚田と教育は、同じ問いを分け持っている。

DEEPER/学術的観点から

ポランニーの暗黙知論に神経科学的な裏付けを与えたのが、ジャコモ・リゾラッティらによる1996年のミラーニューロン研究である(Neuron誌掲載)。サルの前頭葉に発見されたこのニューロン群は、他者の行為を「観察するだけで」自分が行為するかのように発火する。この発見は、共に在ることによる知の移転が比喩ではなく神経生理学的な事実であることを示した。身体が傍に在ることで脳は相手の動作を内部でシミュレートし、語ることのできない技術が移っていく。翻って現代の教育環境を見ると、スクリーン越しの学習やマニュアル化されたカリキュラムは、ミラーリングが起動する「近接性」を構造的に欠く。共育の回路を取り戻すとは、このミラーリングが生じる物理的・時間的近接を再設計することに他ならない。

KEY REFERENCE/参考文献
  • Polanyi, Michael (1958). Personal Knowledge: Towards a Post-Critical Philosophy. University of Chicago Press.
  • Lave, Jean & Wenger, Etienne (1991). Situated Learning: Legitimate Peripheral Participation. Cambridge University Press.
  • Putnam, Robert D. (2000). Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Community. Simon & Schuster.
  • Rizzolatti, Giacomo et al. (1996). Premotor cortex and the recognition of motor actions. Cognitive Brain Research 3(2): 131-141.
  • 田中輝美 (2021). 関係人口の社会学——人口減少時代の地域再生. 大阪大学出版会.
ORIGIN / 元の記事
棚田が消えるのは、継ぐ人がいないからではない
著者: 梅谷真慈
楽しいが作り上げたものとして、ボーカロイドの初音ミクが挙げられるのではないかと感じるが、どうなんだろうか? ビットコインのマイニングもそうなんだろうか? インターネットを介してのものだけではなく、身体知や身体性を育む、身體、身体の扱い方の學びにつながる、心や精神面の育成、脳で言えば右脳的な創造性を育成するような事柄は何になるのだろうか?
身体の動きそのものが知識を生成する——この命題を最初に鮮明に定式化したのは、認知科学者フランシスコ・ヴァレラたちが1991年に著した『身体化された心(The Embodied Mind)』である。彼らは「エナクション(enaction)」と
— 三原重央2026-06-15
同じ問いを「恥の文化と失敗の開示」という角度から深める記事はどうなるのか? 失敗を語れる場が醸造の器になるとすれば、日本社会における恥の構造が器の形成をどう阻むのか?それは確かに興味深い、どうなんだろう?そして!恥とはなんだろう?——次はルース・ベネディクトの批判的継承として、その問いを深めたらどうなるのだろうか?
恥は感情ではなく、社会的視線の内面化装置である。文化人類学者ルース・ベネディクトが1946年『菊と刀』で提示した「恥の文化」概念は、その後の日本研究に決定的な枠組みを与えた。しかし社会学者の中根千枝は1967年『タテ社会の人間関係』で、問題
— 三原重央2026-06-06
私はスペインのカミーノを毎日歩き、900km歩く間、ずっと歩き方を試していた。そして、その中で私が感じた事、どこからが上半身で、どこからが下半身なのか? 私が感じたのは、みぞおち、つまり肋骨の中心から下半身が始まり、そして、上半身は丹田。つまり、丹田から上が上半身が始まる。 これはどうなんだろう? とりあえず、私は上半身、下半身をそのようき仮定して、これを意識して歩いてみた。こうすることにより、下半身は みぞおちから 繋がって足を動かす。そして上半身を丹田から体を前に傾けると、すごく動きの効率が良いように感じた。これについてももっと知りたいところ、不思議でなんで?がたくさんある。 私としては、身體が軽く動けると私は感じたが、どうなんだろうか? この考え方での上半身と下半身が重なる部分、 みぞおちから 丹田までの間は 、へその辺りに 中国医学 中医学で言うところの 帯脈 。上下の経絡をつなぐ 帯脈がある部分だと思う。あってるかな? このみぞおちから 丹田までの体の中心部、帯脈を中心とした。この帯状の部分が身体の要として活用していけるのではないかと、私は今は考えているのだが、どうだろか? 体の姿勢、 態度、そしてそれを意識的に扱えるようになる。体の使い方を訓練する。そして最後には全て忘れる。 これらの事を私は大切に思うが、実際にはどうなんだろうか? 無意識を意識せずに無意識をいかに活用していけるか。それが今後 自分自身が 探求していきたい。身体知におけるテーマだな。と今 私は感じているが、どうなんだろうか?
躯幹の中間帯が身体制御の要になるという直感は、生理学的にも支持される。1970年代にバーンシュタイン(ニコライ・ベルンシュタイン)が提示した運動協調の理論は、身体を「自由度の冗長系」として捉え、中枢が末端を直接命令するのではなく、体幹の安定
— 三原重央2026-06-05
三原重央
フォロワー 0
0 / 4000
まだコメントはありません。