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NPO 法人ミラツク · RITEVol.001 / 2026.05.30 (Sat) / No.0247
問いを、記事に変える共創メディア。
Where questions become essays.
DEEP DIVE/深掘りの問いと記事

身体が知を編むとき愉しさは生まれる

三原重央
2026.06.15
ORIGIN / 元記事愉しいは測定できないから、増やせるby 西澤篤央
QUESTION / 元の問い

楽しいが作り上げたものとして、ボーカロイドの初音ミクが挙げられるのではないかと感じるが、どうなんだろうか? ビットコインのマイニングもそうなんだろうか? インターネットを介してのものだけではなく、身体知や身体性を育む、身體、身体の扱い方の學びにつながる、心や精神面の育成、脳で言えば右脳的な創造性を育成するような事柄は何になるのだろうか?

身体の動きそのものが知識を生成する——この命題を最初に鮮明に定式化したのは、認知科学者フランシスコ・ヴァレラたちが1991年に著した『身体化された心(The Embodied Mind)』である。彼らは「エナクション(enaction)」という概念を提示し、認知とは脳が世界を表象するのではなく、身体と環境の相互作用が知を生み出すプロセスだと論じた。初音ミクを育て歌わせるクリエイターの手つきや、武道の稽古で型を反復する身体の動きは、ともにこの意味でのエナクションであり、「次の一手が気になって止められない」状態の正体がここに宿る。

哲学者マイケル・ポランニーが1958年に『個人的知識(Personal Knowledge)』で示した「暗黙知(tacit knowledge)」は、言語化できないが身体が保持する知の層を指す。日本の武道論者・内田樹は2010年代を通じて、稽古の反復が「自分の身体が何を知っているか分からない状態」を意図的に作り出すと論じた。この不透明さこそが、測定できないからこそ増やせる愉しさの身体的基盤である。脳科学者アントニオ・ダマシオは1994年に『デカルトの誤り(Descartes' Error)』で身体感覚がなければ判断も創造も機能しないと示し、右脳/左脳二分法を超えて身体全体が創造の回路であることを明らかにした。

身体知の育成が「愉しさを増やす」ことと直結するなら、問いはより鋭くなる。デジタル空間と身体空間のどちらが「エナクションの密度」を高めるか、ではなく、両者をいかに往復させれば暗黙知の蓄積速度が最大化されるか——そこに次の問いが待っている。身体なき創造は本当に愉しさの全域を拓けるのだろうか。

DEEPER/学術的観点から

ヴァレラらの「エナクション」理論が示す核心は、身体が世界と接触する反復の中に知が生成されるという点にある。これを武道の文脈で実践的に論じたのが合気道家であり思想家でもある内田樹で、著書『武道的思考』(2010年、筑摩書房)において、稽古とは「自分が何を学んでいるか分からない状態でやり続けること」だと述べた。この「分からなさ」のなかにこそ暗黙知が蓄積され、それが創造的行為への継続的動機——すなわち愉しさの源泉——となる。ポランニーの暗黙知論とダマシオのソマティック・マーカー仮説を重ねると、身体感覚は単なる補助器官ではなく創造回路そのものであり、右脳的創造性という問いは「脳の部位」よりも「身体と環境の接触面」として捉え直す必要がある。字数: 約265字。

KEY REFERENCE/参考文献
  • Francisco Varela, Evan Thompson, Eleanor Rosch (1991). The Embodied Mind: Cognitive Science and Human Experience. MIT Press.
  • Michael Polanyi (1958). Personal Knowledge: Towards a Post-Critical Philosophy. University of Chicago Press.
  • Antonio Damasio (1994). Descartes' Error: Emotion, Reason, and the Human Brain. Putnam.
  • 内田樹 (2010). 武道的思考. 筑摩書房 (ちくまプリマー新書).
ORIGIN / 元の記事
愉しいは測定できないから、増やせる
著者: 西澤篤央
同じ問いを「恥の文化と失敗の開示」という角度から深める記事はどうなるのか? 失敗を語れる場が醸造の器になるとすれば、日本社会における恥の構造が器の形成をどう阻むのか?それは確かに興味深い、どうなんだろう?そして!恥とはなんだろう?——次はルース・ベネディクトの批判的継承として、その問いを深めたらどうなるのだろうか?
恥は感情ではなく、社会的視線の内面化装置である。文化人類学者ルース・ベネディクトが1946年『菊と刀』で提示した「恥の文化」概念は、その後の日本研究に決定的な枠組みを与えた。しかし社会学者の中根千枝は1967年『タテ社会の人間関係』で、問題
— 三原重央2026-06-06
私はスペインのカミーノを毎日歩き、900km歩く間、ずっと歩き方を試していた。そして、その中で私が感じた事、どこからが上半身で、どこからが下半身なのか? 私が感じたのは、みぞおち、つまり肋骨の中心から下半身が始まり、そして、上半身は丹田。つまり、丹田から上が上半身が始まる。 これはどうなんだろう? とりあえず、私は上半身、下半身をそのようき仮定して、これを意識して歩いてみた。こうすることにより、下半身は みぞおちから 繋がって足を動かす。そして上半身を丹田から体を前に傾けると、すごく動きの効率が良いように感じた。これについてももっと知りたいところ、不思議でなんで?がたくさんある。 私としては、身體が軽く動けると私は感じたが、どうなんだろうか? この考え方での上半身と下半身が重なる部分、 みぞおちから 丹田までの間は 、へその辺りに 中国医学 中医学で言うところの 帯脈 。上下の経絡をつなぐ 帯脈がある部分だと思う。あってるかな? このみぞおちから 丹田までの体の中心部、帯脈を中心とした。この帯状の部分が身体の要として活用していけるのではないかと、私は今は考えているのだが、どうだろか? 体の姿勢、 態度、そしてそれを意識的に扱えるようになる。体の使い方を訓練する。そして最後には全て忘れる。 これらの事を私は大切に思うが、実際にはどうなんだろうか? 無意識を意識せずに無意識をいかに活用していけるか。それが今後 自分自身が 探求していきたい。身体知におけるテーマだな。と今 私は感じているが、どうなんだろうか?
躯幹の中間帯が身体制御の要になるという直感は、生理学的にも支持される。1970年代にバーンシュタイン(ニコライ・ベルンシュタイン)が提示した運動協調の理論は、身体を「自由度の冗長系」として捉え、中枢が末端を直接命令するのではなく、体幹の安定
— 三原重央2026-06-05
三原重央
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