QUESTION / 元の問い
「血縁の有無とコミュニティの状態などについての研究があれば知りたい」
血縁の有無が、コミュニティの凝集性や成員の健康状態に与える影響を正面から問うた研究群は、1970年代以降に蓄積し、一つの逆説的な命題を浮かび上がらせてきた。「血縁は凝集の必要条件ではなく、むしろ行為の反復が血縁を事後的に構築する」という命題である。文化人類学者デイヴィッド・シュナイダーは1968年の『アメリカの親族――文化的記述』において、「血のつながり」そのものが西洋近代に固有の文化的構築物であり、親族関係の実態は共食・共住・共労働の反復によって生成されると論じた。この知見は、血縁の有無を独立変数に置いた従来の家族研究の前提を根底から揺さぶるものであった。
同じ問いを別の角度から立体化するのが、社会疫学の知見である。ロバート・パットナムは2000年の『孤独なボウリング』で、地縁・血縁を超えた「橋渡し型ソーシャル・キャピタル (bridging social capital)」が高い地域では、血縁ネットワークの強さと無関係に住民の主観的健康感と信頼感が上昇することを示した。さらに哲学者和辻哲郎が1935年の『風土』で提示した「間柄 (aidagara)」概念——人は関係の外に先立って存在するのではなく、関係そのものの中で人となる——は、血縁の先行性を哲学的に否定する非西洋の論拠として機能する。行為の蓄積が人格を定義するなら、親族とは行為の履歴にほかならない。
残る問いは、「行為による親族生成」がどこまで制度化できるかである。人類学者サラ・フランクリンは2013年の論考で、生殖補助医療が拡張した「技術的親族 (techno-kinship)」の事例を通じ、行為による親族定義が国家・法・市場と交渉する過程を描き出した。行為の累積が親族を生むとすれば、asobi基地のような場の設計は意図的な親族生成装置になりうる。では、その装置が生み出す「親族感覚」は、血縁が持つとされる紐帯の強度と、本当に等価なのだろうか。
DEEPER/学術的観点から
シュナイダーの親族批判は、1984年の著書『親族研究の批判』(A Critique of the Study of Kinship, University of Michigan Press) において更に先鋭化する。彼はそこで、民族誌的フィールドワークが「血縁」という西洋概念をレンズとして非西洋社会に投影し続けてきたと告発した。決定的なのは、ミクロネシア・ヤップ島の調査で「土地との共住行為」が親族を定義していた事例である。ヤップでは誰かと同じ土地で働き、食を分かち合うことが、生物学的出自よりも親族関係の根拠として機能していた。この発見は親族人類学のパラダイム転換を促し、その後の「行為論的親族研究 (practice-based kinship studies)」の礎石となった。コミュニティの状態を評価する際、血縁比率という変数そのものを問い直す必要があることを、この1984年の転換点は静かに、しかし決定的に示している。
KEY REFERENCE/参考文献
- David M. Schneider (1968). American Kinship: A Cultural Account. Prentice-Hall ↗
- David M. Schneider (1984). A Critique of the Study of Kinship. University of Michigan Press ↗
- Robert D. Putnam (2000). Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Community. Simon & Schuster ↗
- 和辻哲郎 (1935). 『風土——人間学的考察』岩波書店 ↗
- Sarah Franklin (2013). Biological Relatives: IVF, Stem Cells, and the Future of Kinship. Duke University Press ↗