QUESTION / 元の問い
「まずはやってみる。興味や欲求から始まる事もある。たまたまや何となくでも良い。自分ゴト起点でやってみること。全てはそこから始まる。」
行為が認識を先導する——この命題を最も鮮明に示したのは、哲学者マイケル・ポランニーが1966年の著書『暗黙知の次元』で描いた自転車乗りの比喩である。自転車を乗りこなす人は、重心のずれを無意識の筋張力で補正しているが、その補正式を言語で説明できない。ポランニーはこれを「私たちは語れる以上のことを知っている」という命題で圧縮した。やってみることで初めて獲得される暗黙知 (tacit knowledge) は、観察や言語的記述では移植できない。「たまたま始めた」行為の中にこそ、身体が最初の教師として機能する回路が宿っている。
神経科学者アントニオ・ダマシオは1994年の著書『デカルトの誤り』で、身体的な情動反応が意思決定の基盤をなすという「ソマティック・マーカー仮説」を提出した。前頭前野の損傷患者は論理的推論は保たれるが、実際の選択で繰り返し誤る。意思決定は抽象的な思考ではなく、過去の行為から蓄積された身体の記憶に根ざしている。日本の思想家西田幾多郎も1911年の『善の研究』で「純粋経験」を核に据え、意識や概念より先に「するということ」が存在すると論じた。自分ゴト起点の行為は、この純粋経験の場を自らの中に開く営みに他ならない。
では、「とりあえずやってみる」という衝動はどこから来るのか。経営学者エフィン・サラスらが2001年に示したチーム意思決定の研究では、熟達者ほど「選択肢を比較する」前に「まず動く」反応が顕著だった。行動が情報を生み出し、その情報がさらに行動を更新する——この反復の中にだけ育つ知がある。好奇心や欲求、偶然の出会い、何となくという軽い動機は、身体を最初の一歩へ押し出す。問うべきは、その軽い動機を「準備不足」として遠ざける文化が、どれだけ多くの暗黙知の芽を摘んでいるか、ではないだろうか。
DEEPER/学術的観点から
ポランニーの暗黙知論は、科学哲学の文脈で生まれたが、その射程は教育・組織・身体技法へと広がり続けている。とりわけ注目すべきは、認知科学者ヒューバート・ドレイファスが1972年の著書『コンピュータには何ができないか』でポランニーの議論を援用し、「ルールに従う初心者」と「状況に溶け込む熟達者」の決定的な非対称を描いた点である。熟達者は規則を参照せず、状況ごと身体で応答する。この「状況への没入」は、やってみることなしには起動しない。教育学者ドナルド・ショーンは1983年の『省察的実践家』でこれを「行為の中の省察 (reflection-in-action)」と呼び、実践の外から与えられる知識との断絶を指摘した。「たまたま始める」という軽い一歩が持つ認識論的な重みは、これらの系譜を辿るとき、初めてその深さが見えてくる。
KEY REFERENCE/参考文献
- Michael Polanyi (1966). The Tacit Dimension. Doubleday, New York. ↗
- Antonio Damasio (1994). Descartes' Error: Emotion, Reason, and the Human Brain. Putnam, New York. ↗
- 西田幾多郎 (1911). 『善の研究』弘道館, 東京. ↗
- Eduardo Salas et al. (2001). Theoretical Issues in Ergonomics Science 2(4): 356–377. ↗
- Donald A. Schön (1983). The Reflective Practitioner: How Professionals Think in Action. Basic Books, New York. ↗