QUESTION / 元の問い
「読書中に感情が動いた一行を書き留めて、持ち寄るという「一行一会」の読書会をずっと続けてます。その場は。いつしか、正しく読むことから離れて、互いの一行と呼応する経験を共有する時間になっていました。一行を持ち寄ることで、なぜ私たちの場が意図せずそう変わっていったのか。ずっと、みんなで考えてます。」
言語が感情を「表現する」のではなく「構成する」という観点を、哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマーは1960年の『真理と方法』で提示した。テキストとの遭遇は問いかけであり、読者はその問いに「さらされる」ことで変容する、という解釈学的経験論である。あなたの「一行一会」の場がいつしか正しさから離れていったのは、偶然ではない。持ち寄られた一行は、それぞれの読者の身体的記憶と結合し、場全体へと問いを投げ返す。誰かの一行が私の何かを呼び起こし、私の応答がまた誰かの記憶を動かす。ガダマーが「地平融合」と呼んだ現象が、集合的かつ連鎖的に起きていたのである。
神経科学者アントニオ・ダマシオは1994年の『デカルトの誤り』で、感情とは身体的状態の変化であり、それが意識に上がる前に行動・判断を先行して方向づけると論じた。一行に手が止まる瞬間、身体はすでに反応を完了させている。民俗学者柳田国男が「共同感覚」と呼んだように、日本の座敷文化には、同じ場を共有する身体どうしが感応し合う回路が埋め込まれている。「一行一会」の場では、各自の身体反応が声と沈黙を通じて場の空気を染め、参加者は互いの身体に読まれ合う状態へと移行していく。
文学理論家ウォルフガング・イーザーは1976年の『読書行為』で、テキストには「空白」があり、読者はその空白を自らの経験で埋めることで初めてテキストが完成すると論じた。「一行一会」の場では、一行の空白が複数の経験によって同時に埋められ、ひとつの一行が多声的なテキストへと変容する。正しさへの収束が起きない理由はここにある。では次の問いはこうなる——複数の経験が交わった後、一行の意味は誰のものになるのか。
DEEPER/学術的観点から
ガダマーの「地平融合」概念は、しばしば二者間の対話として理解されるが、1960年の『真理と方法』第三部「言語を導きの糸とした解釈学的経験の転換」において、彼は対話を「場」として論じている。問いは問う者と問われる者の双方を変容させ、対話が終わった後には出発点に戻ることができない、と彼は述べた。「一行一会」の場でまさに起きているのはこの不可逆性である。さらにイーザーの空白理論と合わせると、複数の読者が同一の一行に集まるとき、各自の空白充填が互いに可視化され、テキストは解釈の確定ではなく「解釈の差異の地図」として機能し始める。この差異の地図こそが、正しさへの収束を解除し、場を探究の共同体へと組み替える駆動力である。
KEY REFERENCE/参考文献
- Hans-Georg Gadamer (1960). Wahrheit und Methode, J.C.B. Mohr (Paul Siebeck), Tübingen
- Antonio Damasio (1994). Descartes' Error: Emotion, Reason, and the Human Brain, Putnam, New York
- Wolfgang Iser (1976). Der Akt des Lesens, Wilhelm Fink Verlag, München
- 柳田国男 (1934). 「民間伝承論」『柳田国男全集』第六巻, 筑摩書房