QUESTION / 元の問い
「じぶんでも、自分自身とは?という問いに答えは出し切れず、接する人の数だけ人格があるように感じるなかで、物語を共有していることを信じるためにはどのようの儀式、それはコミュニケーション?契約?が必要なんだろう」
複数の人格を行き来するように感じながら、それでも「同じ物語を生きている」と信じたい。その信念には、なんらかの儀式的な媒介が必要だ。文化人類学者ヴィクター・ターナー(1969年、『儀礼の過程』)が「リミナリティ(閾の状態)」と呼んだ現象を想起したい。儀礼の中間段階で人は旧来の自己が溶け、まだ新しい自己に固まっていない。その不定形の時間を他者と共に過ごすことで、初めて共有された物語は「実在する」と身体に刻まれる。契約書の署名ではなく、崩れかけた自己を目撃し合う行為こそが、物語を束ねる糊になる。
哲学者ポール・リクール(1990年、『他者としての自己自身』)は、自己とは語りの連続性によって初めて成立すると論じた。だが連続性は孤独には維持できない。神経科学者アントニオ・ダマシオ(1994年、『デカルトの誤り』)は、感情を共有する身体接触が自己意識の基盤をなすと示した。さらに折口信夫は「まれびと(稀人)」の概念で、外から訪れる他者が共同体の物語を更新する契機になると見た。儀式とはつまり、自己が他者の前で一時的に崩れることを許可する構造である。
ここで問い直したいのは、デジタル時代の「儀式」の形だ。リクールの語りの自己は、SNSのタイムラインで分裂する。ターナーのリミナリティは非同期のチャットでは成立しにくい。では、崩れかけた自己を束ねるために現代人が必要としている儀式はどのような形をとりうるのか。物語を共有するとは「同意する」ことではなく、「崩れながら隣に居る」ことを許し合う行為ではないだろうか。
DEEPER/学術的観点から
ターナーが1969年に定式化したリミナリティ論には、重要な補助線がある。民俗学者アルノルト・ファン・ヘネップ(1909年、『通過儀礼』)はすでに、儀礼を「分離・閾・統合」の三段階で記述していた。ターナーはその「閾」の段階に注目し、そこで生まれる「コムニタス(communitas)」、すなわち地位や役割を脱した平等な紐帯を発見した。コムニタスは契約でも制度でもなく、互いが未完成の状態でいることを共にした結果として生まれる。読者が感じる「接する人の数だけ人格がある」という感覚は、この閾の状態の日常的な反復とも読める。自己が固まりきる前の流動状態を、他者と共に生きることが、物語の共有を「信じさせる」最小単位の儀式かもしれない。
KEY REFERENCE/参考文献
- Victor Turner (1969). The Ritual Process: Structure and Anti-Structure. Aldine Publishing ↗
- Arnold van Gennep (1909). Les rites de passage. Émile Nourry ↗
- Paul Ricœur (1990). Soi-même comme un autre. Seuil ↗
- Antonio Damasio (1994). Descartes' Error: Emotion, Reason, and the Human Brain. Putnam ↗
- 折口信夫 (1929). 「まれびとの歴史」『民族』4巻3号 ↗