QUESTION / 元の問い
「なぜ「参与」という言葉に帰結したのか。 究極の豊かさは「参加、与える」つまり、関わりを持つ時間軸ということことなのか?」
豊かさが「関わりを持つ時間軸」だという直感は、哲学者アンリ・ベルクソンが1889年の『時間と自由』で提出した「持続 (durée)」の概念と深く共鳴する。ベルクソンは、時間とは外から計測される尺度ではなく、意識が参与することによって初めて内側で流れるものだと論じた。石鹸を使い切るという行為が「来歴の想像」へと開くとき、人は時計の外に出て、職人の手・オリーブの実・熟成の日々と意識が連続する。この連続こそが持続であり、参与なき消費では決して生じない質の時間である。
物理学者デイヴィッド・ボームは1980年の『全体性と内蔵秩序 (Wholeness and the Implicate Order)』で、現実は「明示秩序 (explicate order)」の表面の下に「内蔵秩序 (implicate order)」として折り畳まれていると述べた。石鹸の白くなめらかな表面が明示秩序なら、土地・時間・手は内蔵秩序である。参与とは、内蔵秩序へ意識を折り返す行為だ。民俗学者の柳田国男は1910年代の調査記録で、農耕儀礼において人が作物と「同じ時間に生きる」ことが豊穣感覚の源泉だと記述している。与えることは、相手の時間に自分の時間を重ねる行為なのである。
文学では、マルセル・プルーストが『失われた時を求めて』(1913-1927) で「非意志的記憶」を通じた参与の復元を書き続けた。石鹸の香りが職人の釜を呼び戻すように、感覚は過去の参与を現在に再接続する。すると問いが立ち上がる。現代の消費空間は、この再接続をいかに設計できるのか。参与は体験設計の問題に見えて、実は「どの時間に属するか」という実存の問いではないだろうか。
DEEPER/学術的観点から
ベルクソンの持続論をより鋭く照射するのが、哲学者モーリス・メルロ=ポンティが1945年の『知覚の現象学 (Phénoménologie de la perception)』で提示した「生きられた身体 (le corps vécu)」の概念である。メルロ=ポンティは、人間が世界に参与するとき、意識より先に身体が状況へと「巻き込まれる (s'engager)」と論じた。石鹸を手で溶かしながら来歴を想像するとき、その想像は純粋な思考ではなく、皮膚・温度・泡立ちという身体的経験が開く通路を通る。参与とはまず身体の出来事であり、時間はその身体を媒介として初めて「刻まれる」のである。ボームの内蔵秩序論と接続すれば、身体参与とは折り畳まれた来歴の時間を皮膚が解凍する行為と言い直せる。この視点は、ラグジュアリーの再定義を「体験の量」ではなく「身体が時間に接触する深度」として測る基準を与えてくれる。
KEY REFERENCE/参考文献
- Henri Bergson (1889). Essai sur les données immédiates de la conscience [時間と自由], Félix Alcan, Paris
- David Bohm (1980). Wholeness and the Implicate Order, Routledge, London ↗
- Marcel Proust (1913). À la recherche du temps perdu, Grasset / NRF, Paris
- Maurice Merleau-Ponty (1945). Phénoménologie de la perception, Gallimard, Paris
- 柳田国男 (1910). 『遠野物語』および農耕儀礼調査記録, 聚精堂, 東京