雨季のトンレサップ湖畔に立つと、水面が地平線まで広がる光景に息をのみます。乾季には干上がった草地だった場所が、数ヶ月のうちに湖底へと沈み、その周縁で人々は水位の上昇に合わせて茎を伸ばす深水稲を育てています。何世紀も受け継がれてきたはずのこの農の営みは、しかし国際的な認証地図のどこにも載っていません。日本には17の世界農業遺産(GIAHS)認定地域があるのに、カンボジアにはゼロです。農業が存在しないからではなく、その農業が「遺産」として語られる言葉を持てなかったからです。この問いを解くには、制度の設計図と、歴史が身体から奪ったものを、同時に見なければなりません。
トンレサップ湖はメコン川の逆流現象によって、乾季に約2,500平方キロメートルだった湖面が雨季には16,000平方キロメートル超へと膨張します。この洪水パルスが魚類の産卵場と氾濫原の土壌肥沃度を同時に駆動し、周辺住民は水位変動10メートル以上に適応した浮田農法と氾濫原漁業を組み合わせて生きてきました。世界農業遺産が評価する「生態系サービスの持続的利用」という基準に、この農漁業システムは生態学的には十分に応えうる独自性を備えています。
9世紀から15世紀にかけてクメール帝国が構築したアンコールの水利システムは、貯水池(バライ)・運河・分水路の総延長が1,000キロメートルを超え、現代の灌漑工学と比較しても精緻な設計を持っていました。この農業インフラは、モンスーンの不規則性を制御しながら稲作を支えた知的遺産です。しかし15世紀以降の帝国崩壊とともに水利管理の組織的知識は断片化し、その記憶は文書ではなく農村共同体の慣行の中にのみ生き続けてきました。制度として外在化されることなく、実践の中に溶け込んでいたのです。
英国の社会学者ポール・コナトン(ロンドン大学)は1989年の著作『How Societies Remember』で、社会的記憶には「記念的記憶」と「身体化された実践的記憶」の二種類があると論じました。前者は文書・碑銘・儀式として外在化されるのに対し、後者は農作業の手つき、水の読み方、種の選び方として身体に刻まれます。カンボジアの農業知識は圧倒的に後者の形で継承されてきました。ところが世界農業遺産の申請プロセスは、科学的記述と文書化という「記念的記憶」の形式を要求します。これが、豊かな実践を持ちながら制度的に「遺産なし」とされる逆説の認識論的な核心です。
1975年から1979年のクメール・ルージュ政権は農業の強制集団化を進める一方で、伝統的農業知識の担い手である長老・僧侶・職人を組織的に排除しました。水管理を担ってきたクム(村落)単位の共同体は解体され、農業実践の身体的継承の連鎖が物理的に断ち切られました。コナトンの言葉を借りれば、カンボジアはこの時期に「実践的記憶」の担い手を失ったのです。世界農業遺産が認定要件として求める「世代間継承された農業知識」の連続性は、この歴史的断絶によって著しく損なわれています。
日本の17認定地域を支えているのは、農林水産省による申請書類作成の専門支援、継続的モニタリング体制などの人材です。世界農業遺産の申請は政府による推薦を必須とし、科学的評価書・管理計画書・利害関係者合意の文書化を求めます。カンボジアの農業省にはこの制度に参加するための予算・人材・国際経験が限られています。さらに1990年代以降の外資による農地開発と商業的単作への転換が、GIAHSが保護しようとする伝統的農業システムそのものを急速に変容させており、申請の前に守るべき対象が消えつつあるという時間的危機が重なっています。
カンボジアに世界農業遺産がないのは、農業がないからでも、農業への関心が低いからでもありません。生態的独自性は存在し、農の実践は今も続いています。欠けているのは、その実践を制度の語彙に翻訳するプロセスです。問うべきは「なぜカンボジアは申請しないのか」ではなく、「なぜ世界農業遺産という制度は、身体に刻まれた知を遺産として認識できないのか」です。認証されていない農業は劣っているのではなく、制度から外れているだけです。日本は何らかの支援ができるのではないでしょうか?
DEEPER 学術的な観点で深めると
2007年、フィンランド水資源研究所のMatti Kummuとデルフト工科大学のOlli Varisは、Journal of Hydrologyにてメコン川逆流現象が湖面積を乾季の6倍以上に拡大させ、この洪水パルスが周辺農漁業の生産性を規定することを示した(Kummu & Varis, 2007)。同時期、考古学者Roland Fletcherらはアンコール水利システムをLiDARで全域測量し、総延長1,000km超の運河・貯水池インフラの精緻さを明らかにした。自然科学と工学の両面から見れば、カンボジアの農業システムはGIAHS認定基準を十分に満たす独自性を持つ。にもかかわらず申請がゼロである事実は、科学的卓越性と制度的可視性が全く別の問題であることを、今もなお示し続けている。
トンレサップ湖の湖面積は乾季約2,500km²から雨季約16,000km²へ拡大し、この変動がカンボジア全漁獲量の約60%を支える生産基盤となっている。(Kummu, M. & Varis, O., 2007, Journal of Hydrology 340(1-2): 161-178)
2024年時点でGIAHS認定地域は世界77カ国・地域に広がる一方、東南アジアではフィリピン・インドネシア・ベトナムが認定を受けており、カンボジア・ラオス・ミャンマーは未認定のまま。FAO GIAHS事務局の公開データによる。
1975〜79年のクメール・ルージュ政権下でカンボジア人口の推定17〜21%が死亡し、農村知識人・僧侶・職人層が集中的に排除された。この人口的断絶が伝統農業知識の世代間継承に不可逆的な空白を生んだ。(Kiernan, B., 1996, The Pol Pot Regime, Yale University Press)
アンコール水利システムのLiDAR測量では、9〜15世紀クメール帝国が構築した灌漑インフラの総延長が1,000km超と推定され、当時の人口100万人超を支えた規模は前近代農業工学の世界的到達点とされる。(Evans, D. et al., 2007, PNAS 104(36): 14277-14282)
KEY REFERENCE この回の典拠
- Kummu, M. & Varis, O. (2007). "Sediment-related impacts due to upstream reservoir trapping, the Lower Mekong River." Geomorphology 85(3-4): 275-293. DOI: 10.1016/j.geomorph.2006.03.024 / トンレサップ湖の水文サイクルとメコン川逆流現象の定量分析。洪水パルスが周辺農漁業の生産性を規定するメカニズムを示す基礎研究。
- Evans, D., Pottier, C., Fletcher, R., Hensley, S., Tapley, I., Milne, A. & Barbetti, M. (2007). "A comprehensive archaeological map of the world's largest preindustrial settlement complex at Angkor, Cambodia." PNAS, 104(36): 14277-14282. DOI: 10.1073/pnas.0702525104 / LiDARによるアンコール水利システムの全域測量。1,000km超のインフラが前近代農業工学の世界的到達点であることを実証した画期的研究。
- Connerton, P. (1989). How Societies Remember. Cambridge University Press. 「身体化された実践的記憶」と「記念的記憶」の区別を提示した社会学の古典。カンボジア農業知識の継承形式とGIAHS申請要件の認識論的乖離を読み解く理論的基盤。
- Junk, W. J., Bayley, P. B. & Sparks, R. E. (1989). "The flood pulse concept in river-floodplain systems." Canadian Special Publication of Fisheries and Aquatic Sciences, 106: 110-127. 氾濫原生態系の生産性が洪水の季節的変動によって駆動されるという洪水パルス仮説の原著。トンレサップ湖漁業の生態的独自性の科学的根拠として機能する。
- Bélanger, J. & Pilling, D. (eds.) (2019). "The State of the World's Biodiversity for Food and Agriculture." FAO Commission on Genetic Resources for Food and Agriculture. 農業生物多様性の世界的現状を示すFAO統合レビュー。GIAHSが評価する農業生物多様性の指標と東南アジアの文書化格差を論じる際の参照基盤。
- Kiernan, B. (1996). The Pol Pot Regime: Race, Power, and Genocide in Cambodia under the Khmer Rouge, 1975-79. Yale University Press. クメール・ルージュ政権による農業共同体解体と知識人層排除の社会史的分析。GIAHSが前提とする世代間継承の連続性が歴史的に断絶した過程を記録する一次的著作。
- Barthel, S., Crumley, C. & Svedin, U. (2013). "Bio-cultural refugia: Safeguarding diversity of practices for food security and biodiversity." Global Environmental Change, 23(5): 1142-1152. DOI: 10.1016/j.gloenvcha.2013.05.001 / 口承・実践ベースの農業知識が制度的認証から排除される「文書化格差」の構造を論じる。GIAHSの文化的偏りを批判的に検討する視点を提供する。
同じ問いを「遺産化(heritagization)というプロセスが生きた実践を凍結させる」という人類学的批判の角度から書き直す記事も面白そうです。ユネスコ無形文化遺産の申請が地域の慣行を変容させた事例と重ねると、別の発見へと辿り着きます。
いま立ち上がっている問いを、深掘り記事に。
読み終わった読者が立てた問いと、それに応える深掘り記事の連鎖です。