会議室で誰かへの批判が始まったとき、場の空気がふっと軽くなるのを感じたことはないだろうか。笑いが生まれ、連帯が生まれ、その場にいる全員がひとつになる。批判された相手が部屋を出た後も、その温もりはしばらく続く。これは職場の些細な一幕だが、人類が数万年かけて磨き上げてきた技法の縮小版でもある。共通の敵を持つことで集団は凝集し、恐怖は怒りに変換され、怒りは帰属感へと結晶する。平和を語る前に、まずこの構造を直視しなければならない。なぜ私たちは、誰かを外側に置くことで「私たち」を感じるのか。その問いは、政治や国家の話ではなく、今日の昼食の席でも静かに作動している。
1970年代初頭、英ブリストル大学の社会心理学者アンリ・タジフェルは、ある奇妙な実験を行った。被験者を「カンディンスキー派」と「クレー派」という恣意的なグループに分けただけで、人々は自分の内集団に多くの報酬を配分し始めた。絵の好みという最小限の分類が、内集団優遇と外集団蔑視を瞬時に生み出したのである。タジフェルはこれを「最小集団パラダイム」と呼び、集団間の敵意が特定の歴史的理由や深い憎しみを必要とせず、分類されるという事実だけで起動することを実証した(Tajfel et al., 1971, European Journal of Social Psychology)。境界線は、私たちが思うよりはるかに薄い土台の上に立っている。
しかし分類が生む内集団への愛は、なぜ外集団への敵意と結びつくのか。2010年、アムステルダム大学のカルステン・デ・ドルーらは、オキシトシン(哺乳類の社会的絆に関わる神経ペプチド)を投与すると内集団への協力が高まる一方で、外集団への防衛的攻撃性も同時に上昇することをScience誌で報告した。愛と敵意は別々の感情ではなく、同じ神経基盤の表裏だったのである。「私たちを守る」という動機が、そのまま「彼らを排除する」動機に転化する。この生物学的な非対称性を知ると、平和を「善意の問題」として語ることの限界が見えてくる。
文学人類学者ルネ・ジラールは、この構造を神話の深層から読み解いた。1972年の著作『暴力と聖なるもの』でジラールは、人間の欲望は他者の欲望を模倣することで生じ、競合が臨界に達した集団は「全員対一人」の犠牲的暴力によって秩序を回復すると論じた。世界の神話に繰り返し現れる「怪物退治」「追放される異人」「生贄の儀礼」は、このスケープゴート機構の象徴的表現である。驚くべきは、この構造が現代のSNS炎上にも完全に対応していることだ。批判の対象が決まった瞬間に場が沸騰し、参加者が結束する——ジラールが問うた「犠牲なき共同体は可能か」という問いは、2020年代の画面の前でも未解決のまま点滅している。
2018年、マサチューセッツ工科大学のソルーシュ・ヴォスーギらはScience誌に衝撃的なデータを発表した。Twitterにおいてフェイクニュースは真実の情報より70%速く拡散し、その主要な燃料が怒りと嫌悪の感情であることを140万件の投稿分析から示したのである。さらに2021年、スタンフォード大学のスティーブン・ラスジェらはPNAS誌で、外集団への否定的な投稿が党派を問わずエンゲージメントを最大化することを実証した。プラットフォームのアルゴリズムは中立ではない。それは外集団への敵意を可視化・増幅し、私たちの「敵を必要とする」傾向を構造的に強化するように設計されている。
では、敵を必要としない「私たち」は設計できるのか。1954年、オクラホマ大学のムザファー・シェリフは少年キャンプで人工的に集団間対立を生成し、その後「上位目標」(どちらの集団も単独では達成できない共通課題)を設定することで敵意が解消されるプロセスを実証した。単なる接触では不十分で、構造的な共同作業が必要だという知見は、今も職場・地域・外交設計の基礎となっている。平和学者ヨハン・ガルトゥングが「積極的平和」と呼んだのは、この構造設計のことだ——争いがない状態ではなく、排除を生まない関係の形式そのものを指す。
平和とは、敵意を消すことではない。敵を必要としない「私たち」という形式を、繰り返し発明し続けることである。タジフェルの実験が示すように、分類は即座に境界を生む。だがシェリフの実験が示すように、構造は変えられる。問いはひとつに絞られる——あなたが今日いる場所で、誰かを外側に置かずに「私たち」を感じる瞬間を、意図的に設計できるか。その答えは、まだ誰も持っていない。
DEEPER 学術的な観点で深めると
2021年、スタンフォード大学のスティーブン・ラスジェ(Rathje)らはPNAS誌に、Facebook・Twitterの実データを用いた計算社会科学的分析を発表した。外集団への否定的な言及を含む投稿は、内集団への肯定的な投稿より一貫して高いエンゲージメントを獲得し、この傾向は保守・リベラルの党派を問わず対称的に現れた。プラットフォームの最適化アルゴリズムが「敵への怒り」を最大エンゲージメント信号として学習・強化するという工学的メカニズムと、オキシトシン研究(De Dreu et al., 2010, Science)が示す「内集団愛=外集団防衛」という神経生物学的非対称性が、デジタル空間で共鳴している。敵の生成は、意図の問題ではなくシステムの問題である。
Twitterにおけるフェイクニュースの拡散速度は真実の情報より70%速く、拡散の主要因は怒りと嫌悪の感情であることが140万件の投稿分析で示された。(Vosoughi et al., 2018, Science 359(6380): 1146–1151)
オキシトシン投与により内集団への協力行動が増加する一方、外集団への防衛的攻撃性も同時に上昇することが二重盲検実験で確認された。内集団への愛と外集団への敵意は同一の神経基盤を共有する。(De Dreu et al., 2010, Science 328(5984): 1408–1411)
外集団への否定的投稿は内集団への肯定的投稿より高いエンゲージメントを獲得し、この傾向は保守・リベラル双方で対称的に観測された。SNSアルゴリズムが敵意を構造的に増幅する。(Rathje et al., 2021, PNAS 118(26): e2024292118)
最小集団パラダイム実験では、絵の好みという恣意的な分類だけで内集団優遇と外集団蔑視が即座に生じた。敵意の発生に歴史的背景や深い憎しみは必要ない。(Tajfel et al., 1971, European Journal of Social Psychology 1(2): 149–178)
KEY REFERENCE この回の典拠
- Tajfel, H., Billig, M. G., Bundy, R. P., & Flament, C. (1971). "Social categorization and intergroup behaviour." European Journal of Social Psychology, 1(2): 149–178. DOI: 10.1002/ejsp.2420010202 / 最小集団パラダイムの原著。分類だけで内外集団バイアスが生じることを初めて実験的に示した社会心理学の古典。
- De Dreu, C. K. W., Greer, L. L., Handgraaf, M. J. J., Shalvi, S., Van Kleef, G. A., Baas, M., Ten Velden, F. S., Van Dijk, E., & Feith, S. W. W. (2010). "The neuropeptide oxytocin regulates parochial altruism in intergroup conflict among humans." Science, 328(5984): 1408–1411. DOI: 10.1126/science.1189047 / オキシトシンが内集団への愛と外集団への防衛的攻撃性を同時に高めることを示した神経科学・社会科学横断の原著。
- Vosoughi, S., Roy, D., & Aral, S. (2018). "The spread of true and false news online." Science, 359(6380): 1146–1151. DOI: 10.1126/science.aap9559 / Twitterにおけるフェイクニュースの拡散速度と感情(怒り・嫌悪)の関係を140万件の投稿から定量化した計算社会科学の原著。
- Rathje, S., Van Bavel, J. J., & van der Linden, S. (2021). "Out-group animosity drives engagement on social media." Proceedings of the National Academy of Sciences, 118(26): e2024292118. DOI: 10.1073/pnas.2024292118 / 外集団への否定的投稿が党派を問わずエンゲージメントを最大化することをFacebook・Twitterの実データで示したPNAS原著。
- Choi, J.-K., & Bowles, S. (2007). "The coevolution of parochial altruism and war." Science, 318(5850): 636–640. DOI: 10.1126/science.1144237 / 集団間戦争と内集団への利他性が共進化してきたことを進化ゲーム理論と考古学的データから示したScience原著。
- Sherif, M., Harvey, O. J., White, B. J., Hood, W. R., & Sherif, C. W. (1961). Intergroup Conflict and Cooperation: The Robbers Cave Experiment. University of Oklahoma Book Exchange. 上位目標による集団間敵意の解消を実証したロバーズ・ケーブ実験の原著。接触だけでなく構造的共同作業が必要という知見の出典。
- Girard, R. (1972). La violence et le sacré. Grasset. (邦訳:ルネ・ジラール著、古田幸男訳『暴力と聖なるもの』法政大学出版局、1982年) 模倣的欲望とスケープゴート機構を神話・宗教儀礼から論じた文学人類学の古典。犠牲なき共同体の可能性を問う本テーマの人文学的基盤。
同じ問いを「修復的司法(Restorative Justice)」の実践から書き直す記事も面白そうです。加害と被害の二項対立を解体し、敵を必要としない関係の再構築を制度として設計しようとした試みから、平和の別の顔が見えてくるかもしれません。
いま立ち上がっている問いを、深掘り記事に。
読み終わった読者が立てた問いと、それに応える深掘り記事の連鎖です。